何にもしないをする
自然に触れる旅行
ぐっとこらえる力
もやもやすると生活が停止してしまうのは悪い所で。何もする気にならず、数日経ってしまいました。
もやもやのはじまりは些細なことで、あーだったこうだったの話からはじまりました。
その後いらいらして話出すと止まらなく愚痴を言ってしまった自分に自己嫌悪。
不愉快な気持ちにさせられて嫌だと思ったのに、愚痴で人を不愉快にしてしまう自分も同じようなものだ。
愚痴は、話す人が聞いてもらっている人に、自分が正当だ、相手が悪い、嫌な気分になるでしょうと、味方になってもらいたくて言うものだと考えます。
つまりこれはフェアな意見ではない。
それがわかって、聞いてくれている人もなんて嫌な人だったの、かわいそうにって言ってもらいたいのが深層心理であるはず。
けれど、実際にそうなるとなんて酷いことを言ってしまったのか、と自己嫌悪で潰されそうになる。
自業自得ながら、なんとも中途半端な愚痴なのか。
大学4年のこの時期に、子供っぽすぎる自分に呆れました。
大学生活はモラトリアムとよく言われるけれど、これまではみんなでこうしてもやもやぐるぐるを繰り返してきたけれど、もう時間と心ともにモラトリアムから抜け出す時期に来ているのかもしれないなぁと考えます。
終わりが来るのは嫌だと思っていたけれど、今はどちらかというと、終わらせなきゃっていう感じ。
引退、就活、卒論、卒業。
そういったものをひとつずつ終わらせる度に、猶予期間の終わりをひしひしと実感していって、ここはもう私の居場所じゃないんだなぁっということに気づいてしまって、さみしいようなほっとするような。そして子供すぎる自分もきちんと終わりにしなければいけない。
「ブログの中のわたし」は好きなことをして、穏やかにのんびり生きている部分だけしか見せない。
そのためのブログというか、わたしが好きなわたしだから、こうして文章として残せていけているのだと思う。
でも実際のわたしはごちゃごちゃ黒いネガティブな部分も構成要素としてあるわけで。
そこを好きな自分と区別したままでは、こっちのわたしは嫌だからこっちに逃げるという心理で、自己嫌悪して反省した気持ちを忘れているだけになる。
そうしたら、いつまでたっても改善していけないんじゃないかと思いました。ので、ぐるぐるする気持ちを書いてみた次第でございます。
お見苦しいお話を失礼しました。
おやすみなさい。
おばけと文章
下巻やっとやっと読み終わった…。
まぁ時間がかかった。
その理由は”幽霊”という存在。
わたしは心霊現象とか、生ならざるものの存在とかは基本的に信じています。でも、言葉にしてしまうとちょっと違うかなと思います。
信じていると、信じている人が集まってくるものです。
が、金縛りにあったとか、何かを見たとか、正夢を見たとか、信じれば救われるとか、そういった話を力説されればされるほど、白々しい気持ちになってしまいます。天邪鬼といえばそれまでかもしれません。
信じているからこそ、はっきりとさせないで欲しい存在であるわけで、そういった話は好きじゃないんです。
解釈は自由ですが。
この本の中でも、心霊現象が幾つか出てきます。
上巻では、生きている人の思いに焦点が当てられているのですんなり読めました。生きている人の意思や思いが強いのは違和感がないからです。
下巻の初めの方で、それまでふわふわしていた存在を、はっきりと現実のものとして認識させる書き方があり、少し残念でした。現実のお話っぽく書かれているからこそなおさらです。
まるっきりのファンタジーなら、幽霊の存在はまた別の話なんですけれど。
「失った家族の話」の流れに必要な存在ではあるのですが、第三者を用いて存在を明らかにするのはなんだかしっくりこない。
とはいえ、ここを過ぎるとまた勢い良く読み進められました。
痛みを抱えて逃げていた人たちが、痛みに向き合い、雪解けを迎えるラストは少しほろりときます。よかった。